大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和30年(う)2377号 判決

控訴人 被告人 小高喜久夫

弁護人 五木田隆 外一名

検察官 近藤忠雄 外一名

主文

本件控訴はこれを棄却する。

当審未決勾留日数中八〇〇日を被告人が言渡された本刑に算入する。

当審訴訟費用中証人野口昇、同大矢房治、同清宮忠に夫々昭和三二年八月二〇日、同年一〇月一一日支給した分を除きその余は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は弁護人五木田隆、同神垣秀六各作成名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、これをここに引用し、これに対し次のとおり判断する。

所論は何れも原判決認定の第二事実(強盗殺人)は証拠能力なく且つ信憑力のない証拠を採用した誤を犯し、不在証明があるにも拘らずこれを措信せず、事実を誤認したものであるのみならず、自白のみによつて事実を認定する訴訟手続上の法令違背の誤をも犯しているというに帰する。

しかし、原判決援用の関係証拠を綜合すれば、原判示第二事実は優にこれを認めうるのである。そこで、

第一、先ず、被告人の不在証明が成立する旨の主張点から判断する。

原判決援用の医師宮内義之助作成の実川ふさの屍体鑑定書、原審証人大宮きよ、同大宮正一郎、同元山茂、同神子菊治の各証人尋問調書に、磯部秀男、矢指本佑一、及川一三、中野尚孝、松末正枝の各司法警察員に対する供述調書を綜合すれば大宮夫妻が実川ふさ方裏手の方でバタンと云う音をきき、それから大宮方前道路をゴム長靴で走るような音をきいたという時間関係から推して、本件被害者実川ふさが殺害された時刻は原判示の如く昭和二九年二月一七日午後九時頃と認めるに足りるのであり、そして、原審第三回(昭和二九年九月三〇日)公判調書中証人三木ぎん、同伊藤米子の各供述記載、当審における昭和三〇年一二月一〇日附右伊藤米子の証人尋問調書の供述記載及び上条貢作成名義の昭和二九年四月一四日附答申書中、成田映画劇場において「にごりえ」、「母の湖」と題する映画を上映したのは昭和二九年二月一七日から同月二〇日迄である旨の記載によれば、被告人が所論の如く昭和二九年二月一七日午後五時頃成田市内の飲食店美喜本におもむいたことはこれを十分認めうるのである。そこで、右の日時に被告人が小倉好の勤務する平和パチンコ店に同人を訪ね、その後果して被告人が同人と共に同日の成田発午後九時五分の終バスで帰宅したものであるか否かの点につき進んで審按するに、原審第一回(昭和二九年七月一日)公判調書中、被告人の昭和二九年二月一七日夜は成田バスの成田発午後九時五分の終バスで小倉好と共に帰り、小倉は大和で下車し、自分は根木名で下車、そのまま帰宅した旨の供述記載、原審第四回(昭和二九年一二月一日)公判調書中、被告人の昭和二九年二月一七日夜小倉好と共に帰宅するとき乗つた成田バスの終バスの車輛型はセミロマンスで、その時の運転手は昭和二九年二月三日の節分の時の同じく成田発終バスの運転手と同一人であつた旨の供述記載に、原審第三回(昭和二九年九月三〇日)公判調書中、証人小倉好の被告人と成田バスの成田発午後九時五分の終バスで一緒に帰つたのは昭和二九年二月一七日で、その時のバスの型はセミロマンスであつた、被告人は自分の勤める平和パチンコ店に四回来たことがある旨の供述記載、同じく原審第三回公判調書中、証人飯田春江の被告人は平和パチンコ店に日は忘れたが四回来たことがあり、二回目に来たときに被告人の持つて来た風呂敷包を開けようとして被告人に注意された旨の供述記載、同証人の当審における昭和三〇年一二月一〇日附尋問調書中、被告人と小倉好とが午後九時五分の終バスで帰つたのは被告人が風呂敷包をもつて来た日である旨の供述記載に、昭和二九年九月九日附成田バス株式会社の成田発多古行終バス勤務者及び車輛型証明書中、成田発多古行終バスの昭和二九年二月三日の運転手は半田四郎で、車輛型はセミロマンス、昭和二九年二月一七日の運転手は半田四郎で車輛型はセミロマンスである旨の記載、成田バス株式会社の路線と所要時間証明書中、成田、根木名間のバス所要時間は二三分である旨の記載を綜合すれば、被告人は昭和二九年二月一七日夜は小倉好と共に成田発多古行午後九時五分の成田バスの終車に乗つて帰途につき、小倉は大和で下車し、被告人は同日午後九時二八分頃根木名で下車し、そのまま帰宅したので(なお原審昭和三〇年一月一〇日附検証調書の記載によれば、根木名の成田バス停留所附近から実川ふさ方迄は徒歩では三、四〇分を要することが認められる。)、昭和二九年二月一七日午後九時頃には右実川ふさ方には現在し得なかつたものの如く見られうることは所論のとおりである。

しかし先ず被告人の右公判供述は下記の理由により信用するに足らないのである。即ち

(一)、(イ) 本件記録によれば、被告人は昭和二九年四月七月午後八時四〇分窃盗被疑事実で逮捕され、爾来原判示窃盗の事実につき取調をうけていたのであるが、捜査当局は已にこの時から被告人に対して実川ふさ殺害の嫌疑をかけていたものであるが(このことは原審第七回昭和三〇年三月一六日公判調書中、証人元山茂の供述記載によつて明かである。)、原審公判廷において、被告人、弁護人が証拠とすることに同意している被告人の司法警察員勝山喜久治に対する昭和二九年四月八日附供述調書中には、自分は昭和二九年二月一四日学校を止めてからは実川ふさ方へは立寄つていない。実川ふさの殺害されたことは家のおばあさんにその二、三日後にきいた。その間大清水で人殺しがあつて、警察の人や新聞記者が沢山来たときいた。二月一六日父に殴られ、一八日迄ふて寝をしていたので、家から出たことはない。実川ふさ方にレインコートを置いてあつたが、それは盗んだものであつたので、実川ふさが殺された後はこれを取りには行かれなかつた旨の供述記載があり、次で、後に説明するとおりで、被告人の任意の供述を録取したものと認めるに足りる司法警察員元山茂に対する被告人の供述調書中、昭和二九年四月一〇日附供述調書中には、私は先日お調のとき二月一四日は友人佐々木賢一郎と成田で映画を見、その帰途美喜本で酒を飲んでおそくなり、翌一五日は学校に行かず、一日寝ており、一六日午前七時頃起床して学校へ行こうと思つたら、父は又私が遊びに行くのかと思つて何処へ行くんだときいたが、私がだまつていたので、父は私の首を持つて柱に押しつけて来たので、抵抗するとそこへ兄の博も来て、父と兄の二人に殴つたり蹴つたりされたが、祖母と母とが止めてくれたので、私は自分の部屋の床の中へ這入つて何も食べずに一日ねており、何処へも外出しないでいたと供述したり、又先日殺された実川方へも二月一〇日頃寄つたままその後は二月一四日から学校を止めたので、実川方へ立寄つたことはないと申したのは嘘であるから、只今から本当のことを申す旨供述し、これに続いて被告人は二月一七日実川ふさ方へ昼間と夜と二回行つたのである。夜は午後七時過成田駅前からバスに乗つて、午後八時一寸すぎ実川方へ行つたが、午後九時頃そのまま実川方を出て帰宅した旨の供述記載があり、そして同じく昭和二九年四月一〇日附の他の一通の供述調書から、実川ふさを殺害したことを自供し、続いて昭和二九年四月一一日、同月一三日の供述調書において実川ふさ殺害の状況を自供したのであるが、同月一四日の供述調書においては二月一七日は家にいたから実川方へ行く筈はないと思う。前に云うた馬喰の高木に逢つたのは二月一五日と思う。その日実川ふさ方に行き、そこで並木のパン屋の爺さんに午後三時頃会つたことは相違ないが、その後成田へ行き美喜本へ寄つてそばを食べたりパチンコ店に寄つて午後七時頃のバスで遠山中学校前で下車せず、三里塚迄行つたと思う旨の供述に変更されたのであるが、何れも二月一七日は小倉好と一緒に帰宅した旨の供述はされていないのである。そして被告人はその後の司法警察員に対する供述調書においても亦検察官に対する供述調書においても、昭和二九年二月一七日夜は小倉好と共に同じ終バスで帰宅したものである。従つて実川方へは行つていない旨は何等供述されていないのである。そして、実川ふさが殺害されたのは昭和二九年二月一七日であり、被告人が逮捕されたのは同年四月七日であつて、翌八日には早くも前説示の如く実川ふさ殺害事件に関連して何等かの質問(前記昭和二九年四月八日附司法警察員に対する被告人の供述調書の内容から判断すると二月一七日の被告人の行動についての質問と推認しうる。)を受けたものと認められるから、被告人が真実二月一七日小倉好と成田発多古行午後九時五分の成田バスの終車で一緒に帰宅し、実川ふさ方へ同夜立寄つた事実がなければ、直ちに自然とこの事実を供述していなければならない筈である。そしてこの事実が真実であるならば、容易に小倉好、成田バス株式会社によつて証明し得て、被告人に対する嫌疑は無事解消しえたものと認められるのである。しかるに被告人においてこのように二月一七日夜は小倉好と共に成田バスの終バスで帰宅した旨の供述をした形跡が何等認められないのは、忘れていたと認めるには日時(二月一七日から四月八日迄その間五〇日である。)が接近しすぎている点並に後記被告人の司法警察員元山茂に対する昭和二九年四月一三日及び同月一五日附各供述調書によれば被告人は二月一七日は成田の日で自宅で餅をついたと述べているのであるから、この日の出来事は他の日のことに比較してよりよく記憶しているものと思われる点から考えると極めて不自然である。のみならず後に説明するとおりで、被告人の任意の供述を録取したものと認めるに足りる司法警察員元山茂に対する昭和二九年四月一三日附供述調書中、同年二月一七日夜実川ふさ方へ行き午後八時一寸過ぎ同人方炬燵に入り、三〇分位たつた頃成田方面から三里塚方面に行つた自動車の音を聞いた、その自動車はハイヤーかトラツクかバスか家の中にいたので判らないが、音で大型だと思つた、自動車が通つたら間もなく実川ふさが私にまだ帰らないのかと云うので私は今少し置いてくれと云つて箪笥のよの目覚時計を見たら九時一五分位前であつた、実川ふさはそれではいいかげん時分にあすこの土間の鍵をあけて帰れ、自分は先に寝ると云うて寝たのである。私は実川ふさが寝てから少したつて、金を盗もうと押入の戸を開けたとき又自動車が成田の方から三里塚の方へ行く音がしたのである。やはりこれも大型の様であつた。(中略)私が実川方から県道に出た時は午後九時少し過頃と思つた、私は三里塚の方へ早足で逃げて行くと大清水の火見櫓の辺で三里塚の方から自動車の「ライト」が見えたので、私は自動車に見られては具合が悪いと思つたので、道路の右端の方によけて歩いて、大急ぎで大清水を通り越し、合同油脂の入口から家に帰つた旨の供述記載部分は、前記矢指本佑一、及川一三、磯部秀男、中野尚孝等の司法警察員に対する供述調書の供述記載と符合していて、昭和二九年二月一七日午後八時頃から同九時頃迄実川ふさ方に現在したものでなければ経験し得ない事柄である点(なお右矢指本、及川、磯部、中野等の供述調書は被告人の右供述調書作成((四月一三日))後である四月一四日或は四月一五日に作成されたものであつて、被告人の供述が右参考人の供述によつて裏づけされていることから見れば、後に説明する如く被告人の司法警察員に対する右供述調書の信憑性を肯認するに足りる一証左とも認められるのである。)を綜合考察すれば、原審公判開始後に至つて始めて供述された被告人の二月一七日夜は小倉好と共に成田発多古行成田バスの終車で帰宅し、同夜実川ふさ方へ行つた覚はない旨の公判供述は到底信用することはできないのである。

(ロ) そこで、進んで、小倉好と帰宅したとき乗つた終バスはセミロマンス型でその運転手が節分の時の終バスの運転手と同一人であつたと思う旨の被告人の原審公判供述の信憑性につき審究するに、運転手が節分の時の終バスの運転手と同一人であつたという点は、被告人がこの供述をしたのは前説示の如く原審第四回(昭和二九年一二月一日)公判期日であるところ、昭和二九年二月三日の終バスはセミロマンスで運転手は半田四郎であり、同月一七日の終バスもセミロマンスで運転手は半田四郎である旨が記載されている前記昭和二九年九月九日附成田バス株式会社の証明書が証拠調されたのは原審第五回(昭和三〇年二月二日)公判廷であり、しかも原審第七回(昭和三〇年三月一六日)公判調書中、被告人の弁護人五木田隆の証人としての供述記載によれば、被告人の本件事件が千葉家庭裁判所に繋属していた当時の昭和二九年五月八日同証人が弁護人として被告人に面会したとき、被告人は已に昭和二九年二月一七日は小倉好と成田発午後九時五分の終バスで帰つたことは間違いなく、小倉好と一緒に帰宅したのは一回丈で、その時の車の型はセミロマンスで、その運転手は節分の日の運転手と同一人であつたというので、同証人が小倉好を呼んで聞くと、被告人と一緒に帰つたのは一回丈で、その時の車輛型はセミロマンスである旨供述したのであり、更に成田バスの本社につき調査すると、昭和二九年二月三日の終バスの運転手と同年二月一七日の終バスの運転手とは同一人であつたことが判つたというのであつて、同証人の供述は要するに先ず、被告人が二月一七日夜小倉好と共に帰宅したとき乗つたバスの型はセミロマンスで、その運転手は二月三日の運転手と同一人であつた旨供述し、後にこれを補強するに足りる小倉好の供述があり、更に成田バス株式会社の証明書が作成されたとの趣旨なのであるところ、右成田バス株式会社の証明書の記載内容は前記のとおりであつて、これらの証拠によれば、被告人の右公判供述は客観的事実と符合していて正に二月一七日の右終バスに乗つた者にして始めてなし得る供述の如くにも見えるのである。

しかし乍ら已に説明したとおり、被告人は司法警察員、検察官に対しては、二月一七日小倉好と同じバスで帰宅した旨を供述していないのみならず、二月一七日小倉好と共に帰宅したときのバスの車輛型等について五木田弁護人に供述したという五月八日の僅に一〇日後に作成されている被告人の検察官に対する昭和二九年五月一八日附供述調書にもその旨の供述記載は存在せず、却つて右の五木田証人に対する供述の内容とは相容れない而も自己に不利益な原判示日時頃実川ふさを殺害した事実を自供し併せて家庭裁判所で実川ふさ殺害の事実を否認した事情を述べ(家庭裁判所の昭和二九年五月一四日附被告人に対する少年調書によれば、被告人は実川ふさ殺害の事実を否認している。)、更に同月二二日附被告人の検察官に対する供述調書においても前同様実川ふさ殺害の事実を自供しているのである。そして車輛型、運転手のことは原審公判においても当初はこれを供述することなく第四回(昭和二九年一二月一日)公判廷において始めて供述しているのであるが、この時は已に原審第三回(同年九月三〇日)公判廷において小倉好が証人として被告人と成田バスの午後九時五分の終車で一緒に帰つたのは二月一七日であつて、その時のバスの型はセミロマンスであつた旨の供述をした後であり、然も右小倉好の供述の措信し得ないことは後に説明する通りであつて、これらの諸点と前記被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一三日附供述調書の供述記載とを綜合考察すると、被告人が五月八日五木田証人に対し前記の如く供述したとしてもその供述並に前記の原審第四回公判廷における被告人の供述は共に真実に合致する自己の経験をありの儘に供述しているものとは認め難く、従つて到底信用するに足りないのである。

(二)、次に証人小倉好の原審第三回(昭和二九年九月三〇日)公判廷における供述中、自分が被告人と一緒に成田発の成田バスの終バスで帰宅したのは二月一七日であり、その時のバスの車輛型はセミロマンスであつた旨の部分の真偽につき按ずるに、昭和三〇年一月一〇日附成田警察署巡査部長山田弘の捜査方についてと題する同警察署長宛の書面、同年一月一一日附同警察署巡査高島愛次郎の捜査方についてと題する同警察署長宛の書面中、各小倉好は昭和二九年七月頃被告人の父小高利政と被告人の弁護人五木田隆方へ同道し、同年九月三〇日証人として原審千葉地方裁判所へ出頭する際は右小高利政と同道している旨の記載に、原審第五回(昭和三〇年二月二日)公判廷において証拠として取り調べられた弁護人提出の成田バス株式会社作成の成田発多古行終バス勤務者及び車輛型証明書の作成年月日が昭和二九年九月九日である事実に、小倉好の司法警察員に対する供述調書(昭和二九年四月一二日附、同月一五日附、同月二七日附の三通)、原審並に当審証人神子菊治に対する各証人尋問調書、被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一三日附供述調書の各供述記載に銚子測候所長の昭和二九年四月二一日附気象資料回答書の記載を綜合対照の上検討すれば、真実に合する供述とは認められないのである。

(イ)  即ち成田バスの終バスで被告人と一緒に帰宅したのは二月一七日であつたとの点は、小倉好は原審第三回公判廷において、自分が警察で尋ねられたときは、警察では一六日には雨が降つていたが一七日には降つていないというので、私は雨の日以外はバスで帰宅していないので被告人と一緒に帰つたのは一六日と申したが、一七日の天候をバス会社で調べたら一七日が雨だといわれたので二人で帰つたのは一七日に間違いない旨供述しているのであるが、証人神子菊治の右原審における証人尋問調書の供述記載中、自分が調査した結果、被告人と小倉好の二人がバスで帰つたのは二月一六日であることが出ました、二月一七日も雨が降つたのであるから、小倉好はバスで帰つたようになつていると思いますが、一六日は午後から雨が降り出し、小倉はその日朝は自転車で行き帰りに雨に降られてバスで帰つて来たのであり、一七日は朝雨が降つていたが、午後は止んだという事で、三里塚の牧場に天候の調があり、そこで調べると二月一六日は午後降つて午前は降らず、二月一七日は雨は朝降つて午後は降らないという事であつた旨の部分(なおこの証人の尋問調書中には被告人が同証人に対し、二月一七日は午前中は雨が降らず、午後から降り出したのですが、その点はどうかという質問をしている旨の記載があり、この点から考えれば、被告人としても小倉好と共に帰宅した日は午前中は雨が降らず、午後から降り出した日であることを記憶している事実が窺えるのである。そしてこの事実は被告人の原審公判供述を信用し得ない一証左とも認められる。)に照せば取調官が小倉好に対し天候関係につき右の如く一六日には雨が降つていたが、一七日には降つていないというような事を申し向けたものとは到底認められず、このことは当審証人神子菊治の証人尋問調書中の供述記載に徴すれば一層明白である。

(ロ)  又その車輛型がセミロマンス型であつた旨の点は、証人小倉好の原審公判供述によつても知りうる如く、同人は当時成田バス株式会社の成田発多古行バスには度々乗車しているのであり、そして右成田バス株式会社の証明書によつても認めうる如く成田発多古行バスの内にはセミロマンス型と三方シート型(二月一六日の終バスの型はこれであることは右証明書によつて明らかである。)とがあり、小倉好も嘗てそのセミロマンス型にも屡々乗車しているものと推認し得るのであるが、嘗て乗車したバスの車輛型などはその乗車したとき特に意識したとすれば格別、そうでなければ通常一々これを意識して乗車するものではないと認められるから、これを記憶していないのが寧ろ普通と認められる。そして被告人と共に帰宅した時乗車した車輛型はセミロマンスではなかつたかと云うように問われれば、然る旨答える傾向のあることは通常人には屡々見られるところであり、そしてセミロマンスならば二月一六日ではなく二月一七日であつたと容易になりうる事柄である。このようにして一度形成された想念は、以前の記憶が不正確であればある程現実的な過去の正しい記憶として残存する傾向が多分にあるものと認められるのであるが、同人の当審における証人尋問調書中神垣弁護人の被告人と一緒に帰つたのは一回丈で、その一回が二月一六日か一七日かというのだが、その一回は何日であつたかということを人と話し合つたことはないかという問に対し、同証人は最終バスとしてセミロマンス型のものが出たのは一七日ではなかつたかと云われてそうなつたと思う旨答え、そしてそれは誰かと問われて、それは忘れた旨答えているが、更に検事から証人は五木田弁護人に成田バスの終バスの証明書を見せられて、それで一六日と思つていたのが一七日と供述が変るようになつたのではないかと問われて左様でありましたと答えている旨の記載により正にこの事実を窺い知ることができるのである。従つて、小倉好の原審公判廷における車輛型についての供述部分はこのようにして形成された記憶に基くものと認められるのである。そして以上の事実と小倉好の司法警察員に対する昭和二九年四月一二日附、同月一五日附、同月二七日附各供述調書の供述記載並に前記被告人に対する昭和二九年四月一三日附供述調書の供述記載及び銚子測候所長の昭和二九年四月二一日附気象資料回答書の記載を対照考察すれば、同人の被告人と終バスで共に帰宅したのは二月一七日で、その車輛型はセミロマンスである旨の原審公判供述は到底措信することができないのである。その他証人小倉好の当審における証人尋問調書中原審認定に反する如く現われている部分も右と同様の理由によりこれを信用することはできないのである。

(三)、続いて飯田春江の前記引用供述部分の真偽につき審按するに、同人の原審第三回(昭和二九年九月三〇日)公判廷における供述は、被告人は平和パチンコ店へは四回来ており、第一回目は友人と二人で来、第二回目は被告人独りで来、その時は洋傘を持ち風呂敷包を持つており、風呂敷包を店に預けたので、これを私が開けようとして被告人から注意された旨であり、同証人の当審における証人尋問調書中には被告人が小倉好と共に午後九時五分のバスで帰つたのは、被告人が風呂敷包を持つて来た日である旨の供述記載であり、そして他方被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一三日附供述調書中には昭和二九年二月一七日自宅を出るときはゴム長靴を穿き、洋傘を持ち、ノート二冊程を包んだ風呂敷包をもつて出た旨の供述記載があり、これらは被告人の原審公判廷における風呂敷包を持つて平和パチンコ店へ行つた日に小倉好と共に成田発午後九時五分の終バスで帰宅した旨の供述に符合するが如くである。しかし乍ら飯田春江の原審第三回(昭和二九年九月三〇日)公判調書中の供述記載によつても、被告人が平和パチンコ店へ二回目に来たとき被告人は何時頃帰つたのか判らぬというのであり、しかも小倉好はその日バスで帰つたとは供述しているが、被告人と小倉好とが一緒に帰つたとは供述していないのである。又当審における昭和三〇年一二月一〇日附同証人尋問調書中にも、被告人は平和パチンコ店に何回来たか記憶せず、最初来たときかどうか記憶していないが、被告人が連れの人と二人で来たとき、被告人は小倉好に終バスで一緒に帰ろう、美喜本で待つているから、それ迄傘を預つてくれと云うて傘を預けて行つた、後刻小倉好が預かつた傘をもつて行つたが、戻つて来て先へ帰つてくれと云われたからと持つて行つた傘を又持つて来て、これは被告人等が帰りに寄るかも知れないから預かつてくれと私に傘を渡したことがある。その後被告人が来たときは縞の風呂敷で本を包んだような物を小倉に預けたところ私が本を見ようとして包を解きかけると小倉に注意されたことがあるが、その日被告人がどのように行動したか私はパチンコの機械の裏廻りをしていたから判らない。被告人が何時頃帰つたのかも判らない。私は被告人に対し特に気をつけていたという事はないから右二回の外は記憶していない旨の供述記載部分並に前記被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一三日附供述調書中の供述記載に対比すれば、飯田春江の被告人がパチンコ店へ風呂敷包を持つて来た日が小倉好と被告人とが一緒に午後九時五分の終バスで帰宅した日である旨の供述及びその他原審認定に反する如く現われている部分は信用するに足らないのである。

(四)、その他原審第七回(昭和三〇年三月一六日)公判調書中証人小高りうの昭和二九年二月一七日夜被告人は九時半頃帰宅した旨の供述記載は、同人は被告人の祖母であり、年令も当時七一才であつて、特別の事情のない限り一箇年余も前に生じた日常の事柄について時間の点まで正確に記憶していて、これを供述したものとは到底認められないのであつて、信用するに足りないものである。他に本件記録によつては被告人が昭和二九年二月一七日夜九時頃は実川ふさ方以外の場所に現在していて、同人方には現在し得なかつたという事実を認めるに足りる証拠は発見出来ないのである。結局被告人の司法警察員、検察官に対する供述調書によつて認められる如く被告人が小倉好と共に成田バスの終バスで帰宅したのは昭和二九年二月一六日の夜であつて同年二月一七日ではないと認めるより外ないのである。

第二、被告人の供述調書の任意性について、

原判決が証拠に採用している被告人の司法警察員に対する供述調書中、本件強盗殺人に関する一三通(原判決は一二通と記載しているが一三通の誤記であることは原判示自体によつて明瞭である。)及び検察官に対する昭和二九年四月二七日附供述調書の任意性につき審究するに、司法警察員に対する供述調書中、事実を否認するもの二通(昭和二九年四月一〇日附、同月一四日附)、他の一一通は事実を自白するものであるが、自白のものも兇器については、次のとおり変化しているのである。即ち昭和二九年四月一〇日附のものは実川方に在つた鉄棒。同月一一日附のものは同じく実川方に在つた薪より少し太い丸太。同月一三日附のものは同じく実川方風呂場に隠してあつた長さ約三〇糎、径約二糎の金の棒。同月一六日附のものは富里村根木名分校の物置から持つて来た長さ約五〇糎の丸い金の棒。同月二二日附のものは自宅にあつた竹割というのである。その他各供述を対照すれば自白のものにも相互に殺害の動機、方法等についても相違する点が存在するのである。(例えば昭和二九年四月一一日附のものと、同月一三日附のものでは殺害の方法手段に多少相違する点あり。)そして已に説示するとおり事実を否認しているものと、自白しているものとが存在し、而も否認調書中の一通は四月一四日附のものであつて、その前日たる四月一三日附のもの及びその翌日たる四月一五日附のものは何れも自白調書であること、以上の各供述調書が同一の司法警察員によつて作成されていることを併せ考え、更に各自白調書の形式内容を仔細に検討すると各自白調書も否認調書と同様被告人の任意の供述を録取したものと推認しうるのみならず、原審第六回(昭和三〇年三月二日)、第七回(同月一六日)公判調書中、被告人の取調を担当した司法警察員元山茂の証人としての供述記載及び同証人の当審における証人としての尋問調書によれば、被告人の同証人に対する供述調書は強制誘導によるものではなく任意の供述を録取したものであることを十分肯認するに足りるのである。又検察官に対する右供述調書はその内容は殆んど司法警察員に対する各供述を統一したものと軌を一つにするものであるところ、原審第六回(昭和三〇年三月二日)公判調書中、証人鈴木恒夫の供述記載によれば、被告人の右検察官供述調書は被告人の任意の供述を録取したものであることを十分認めうるのである。以上のとおりで、被告人の司法警察員元山茂に対する供述調書及び右検察官に対する供述調書は任意性の存するものであることはまことに明瞭である。なお右検察官供述調書以外の其の余の検察官に対する被告人の供述調書は、原審第六回(昭和三〇年三月二日)公判調書中証人大野善雄、同神崎英雄の供述記載によれば被告人の任意の供述を録取したものであることを認めるに十分である。

第三、被告人の供述調書の信憑性について、

進んで右各供述調書の信憑性につき按ずるに、被告人は昭和二九年四月一九日強盗殺人被疑事件の勾留尋問において実川ふさを殺害した事実を認めていることはその尋問調書の記載によつて明白である。(この事実は被告人の右司法警察員及び検察官供述調書の任意性の存することの一証左と為すことができる。)ところで、被告人は昭和二九年四月八日の司法警察員勝山喜久治の取調に対しては二月一七日実川ふさ方へ行つたことはない旨供述し、次で右元山茂の昭和二九年四月一〇日附供述調書においては、二月一七日昼と夜と二回実川ふさ方へ行つたが、午後九時頃同家を立ち去つたという丈であつたが、四月一〇日の後の供述において始めて実川ふさを殺害した事実を認めたのであるが、その動機は未だ窃盗の事実を知られたのでこれが他に知られることを虞れて殺害したというのではなく、ただ文句を云われたのでかつとなつて殺害したというのみであつたが、四月一一日に至つて窃盗の事実を知られたので、あやまつたが許してくれないので、これを殺害した旨強盗殺人の事実を自白するに至り、そして四月一三日その詳細を供述したのであるが、四月一四日再び二月一七日は実川方へ行つたことはなく、従つて、実川ふさを殺害した覚はない旨否認したのである。そして四月一五日の供述調書において、一四日に否認した理由として、昨日は弁護士が来て私の泥棒したこと、実川ふさを殺したことについて一時間半位色々聞かれたので、警察に話したように話したのであるが、弁護士が私の味方であるから真実の話をするようにと云つてくれたので、急に気が変り、弁護士が私の味方と思つたから、実川方へは昼間は行つたが、夜は行かぬと嘘を云つたのである。それで警察でも成田へ行つたのは二月一七日ではなく、二月一五日であるから、実川ふさを殺した覚はないと云うように述べた旨供述して、否認の心境を供述し、その後は自白を続けているのであつて、その供述を相互に対照検討すれば、被告人の心理の変化や動きを自然に表現しているものと認められるのである。

しかも被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一四日の否認調書の中には自分が実川ふさ方において並木パン屋に三時頃逢つたのは間違いないがそれは二月一五日である。その時はそれから成田へ行き美喜本へ寄つてそばを食べたり、パチンコ店に寄つて、午後七時頃のバスに乗り遠山中学校前では下車せず、そのまま三里塚迄行つたと思う、このバスで遠山中学校裏の二十七、八才の煙草屋の秀さんに逢つた旨供述し、その翌四月一五日附司法警察員に対する供述調書において、煙草屋の秀さんをバスの中で見かけたのは二月一七日成田からの帰りである旨訂正して供述しているのであるが、当審における証人神崎秀夫(当三一才)の昭和三三年二月二四日附尋問調書によれば、同人は大清水の中学校(遠山中学のこと)の裏に住み自家は煙草屋である。昭和二九年二月一八日本件発生の事実を知つたが、その前日である二月一七日は午後一時頃成田市に出て、二本立の映画を見映画館に四、五時間居て、再び省営バスに乗つて帰宅し、夕食は帰宅後に家で食べた旨の供述記載であつて、右被告人の成田からの帰りのバスの中で煙草屋の秀さんに逢つた旨の供述に正に合致するのである。(この点は前説示被告人の不在証明の主張の理由のないことの一証左とも認められる。)

しかし、兇器の点については已に説示した如く数度供述が変つており、なお原審第七回(昭和三〇年三月一六日)公判調書中、証人元山茂の供述記載によれば、被告人の司法警察員に対する兇器の供述は前説示の如き数回に止まらず、一〇数回も変つた事実が認められるのであるが、殺害の事実を認め乍ら兇器の点につきこのように供述を変えることは、結局殺害の事実につき虚偽の供述をする結果、兇器についても真実を供述し得ない為ではないかとの神垣弁護人所論のような疑問も一応は生じうるのであるが、殺人事件において殺害の事実を認め乍ら兇器につき或はその方法につき自白を躊躇する場合のあることは往往経験するところであるのみならず、被告人の昭和二九年四月二四日附司法警察員に対する供述調書によれば、兇器について色々嘘を述べたのは竹割が日本刀を切つて作つたものであつた故、日本刀の出先迄調べられると困ると思つたから、又実川ふさを叩いたつもりであるが、夢中であつたから或はぶつ刺傷も出来たかも知れないが、刺し傷では罪が重くなると考えたので、丸太とかボルトとか自転車の荷掛の足とか嘘をついたのである旨供述し、又検察官に対する昭和二九年五月二二日供述調書によれば、兇器について色々に云うたのは切物でやつたという事になれば、罪が重くなると思つたので云いにくかつたからである旨供述しているのであつて、兇器についての供述を変更したことについて合理的な理由が説明されているのである。従つて殺害の供述が虚偽である為、兇器について真実の供述をなし得なかつたものとは到底認め難いのである。

なお、五木田弁護人の指摘するように、被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二八日附供述調書中には、二月一七日夜川の水で手を洗つた際、その水が濁つていた旨の供述記載があり、又同年四月二〇日附供述調書、被告人作成の金銭使用区分表(昭和三〇年領第四六号の一)中には伊藤米子の原審第三回(昭和二九年九月三〇日)公判供述に照せば所論のように被告人が昭和二九年二月一七日費消した金銭の額に事実と反する点が存するのであるけれども、仮に暗夜で水が濁つていたか否かこれを識別することは不可能であつたとしても、銚子測候所作成に係る昭和三〇年一月一九日附鑑定書によれば、三里塚方面では、昭和二九年二月一六日午後六時頃から雨が降り、翌二月一七日は午前、午後とも雨降りであることが認められるので、小川の水も当然多少は濁つていたものと認められるのである。従つて被告人はこの雨の降つた事実から受けた印象で、水は濁つていたと表現したものとも推測せられるのである。従つて、被告人の川の水が濁つていた旨の供述があるからと云うて被告人がその他の点についても全くの虚構の事実を供述したものとは認められないのである。又或一日使用した金銭の額に事実と反する点があつても、その供述の全体が総て誤であるとは勿論認められないのである。

更に被告人の検察官に対する昭和二九年四月二七日附供述調書に現われている時間関係からその供述の信憑性につき按ずるに、右供述調書には、被告人が実川ふさ方座敷へ上り炬燵に入れてもらつた際、同人にもう何時だときいたら、婆さんは箪笥の上に在つた目覚時計を見ながら余り正確な時計ではないが九時一五分前だと云つていた、それから婆さんは私に帰れと云つて寝たのであるが、その際私は婆さんに靴下が未だ濡れているから、もう少し居させてくれと頼んだのである。私と婆さんと炬燵で話をしていた時間は二〇分位である。婆さんが床についてから約一〇分か一五分たつてから、私はもう婆さんが眠つたろうと思つて炬燵から出て、その部屋の北側押入の行李から現金を包んだと思われる紙包をとつて、服の右ポケツトに入れて、更に探そうとしたところ、婆さんに発見され詫びたが許してくれなかつたので、原判示の如く実川ふさを殺害し、帰ろうとしたとき部屋の東側(大宮正一郎方に面する側)で何か音がした様なので東側雨戸の傍迄行き様子をうかがつたが別に人の居る気配もないので、店舗土間からゴム長靴、洋傘を持つて来て靴を穿いて実川方裏勝手口から外へ出て県道を通つて帰宅する途中、大清水の火見櫓の手前五〇米位のところへ来たとき、前方三里塚方面から来た普通型のハイヤーに出逢つた。婆さんと炬燵で話をしているときと婆さんが寝てから間もない時の二回成田方面から三里塚方面に向う大型バスと思うが、通つたように記憶しているというのであるところ、他方矢指本佑一の昭和二九年四月一四日附司法警察員に対する供述調書によれば、同人は国有鉄道バスの運転者であるところ、同年二月一七日は午後七時五〇分成田駅前発車のバスを運転し、遠山中学校前を午後八時二〇分過頃通過したというのであり、原審検証調書(昭和二九年九月六日附)に照せば、本件現場はそれよりなお数分後に通過したものと認められ、磯部秀男(同じく国鉄バス運転者)の同年四月一四日附司法警察員に対する供述調書によれば、同人は同年二月一七日は午後八時二〇分成田駅前発車の終バスを運転、三里塚小学校前の丁字路の停留所に着く一〇〇米位手前で、三里塚方面から成田方面に向う乗用車に行き逢つた、それは午後八時五五分頃であるというのであつて、右原審検証調書に照せば、本件現場はそれより数分前に通過したものと認められ、中野尚孝の同年四月一五日附司法警察員に対する供述調書によれば、同人は成田タクシーの運転者であるところ、同年二月一七日三里塚大竹屋を午後八時四五分頃出発、大竹屋を出てから旧三里塚入口の省営バス(国鉄バスのこと)の三里塚小学校前停留所の処から約七、八〇米成田よりの地点で、成田発の午後八時二〇分の終バスと行き逢つた、これが午後八時五〇分か五五分頃と思う、本件現場前を通つたのは午後九時五分か一〇分頃であつた、なおこの日は道が悪く平常ならば一五分位のところを三〇分位もかかつたというのであるから、若し、被告人の検察官に対する実川方へ上つて炬燵に入つた時が午後九時一五分前であつたというのが真実であるとすれば、実川方を出てから火見櫓の手前でハイヤーに行き逢うことは不可能に帰するものと謂わなければならない。しかし被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一三日附供述調書は前説示のとおりで、午後九時一五分前というのは実川ふさが寝床に入る直前であるというのであつて、この供述調書によれば、被告人が実川方において自動車の通る音を聞いた時間関係及び実川方を出てから火見櫓の手前辺で中野尚孝運転のハイヤーに行き逢う時間関係が右矢指本、磯部、中野の各供述調書に照応符合するのである。而して、被告人の右検察官に対する供述調書の供述記載と右司法警察員に対する供述調書の供述記載とを対照すると、前者においては被告人が炬燵に入つたときが午後九時一五分前であつたというのに対し後者では実川ふさが寝床に入る時が午後九時一五分前であつたという差異があるのみで、両者とも炬燵に入つているとき一回、愈々盗みをする前一回夫々実川方前道路を自動車の通る音を聞いたというのであり、そして県道へ出てから自動車に行き逢つた旨供述しているのである。これによつて見れば、被告人の右検察官に対する供述調書中、炬燵に入つた時間が午後九時一五分前であつたというのは被告人の供述の誤と認めるのを相当とし、その余の部分はやはり真実の供述であつて十分信用しうるものと認められるのである。

以上のとおりで、被告人の司法警察員(元山茂)に対する一三通の供述調書及び検察官に対する昭和二九年四月二七日附供述調書は信憑性の十分存するものと認められるのである。

第四、そこで進んで原判決が証拠に採用している原審鑑定証人宮内義之助の原審第六回(昭和三〇年三月二日)公判廷における供述中、被害者実川ふさの頭蓋骨の損傷中同人作成の昭和二九年六月二三日附実川ふさの屍体解剖鑑定書による(ハ)、(ト)の創傷に附随する骨折陥没は本件押収に係る竹割によつて形成されたと考える。何故ならば、(ハ)創に竹割の先端を当てると骨折箇所の曲線と一致し、(ト)創の穿孔と竹割の先端との各縁はよく一致する旨の部分の信憑性につき審究するに、当審第一〇回(昭和三二年一月二二日)公判廷において、右宮内義之助は証人としてなお右(ハ)、(ト)創は本件竹割の先端とよく一致する旨供述しているのであるが、当審における鑑定人古畑種基作成にかかる昭和三一年七月二一日附鑑定書、昭和三二年一月二六日附鑑定補充書(これによつて先の鑑定書中、竹割を打ち下ろす際の速度についての説明部分は変更されている。そしてこの限りにおいては古畑鑑定人の鑑定書中竹割の速度の点は信用しない。)並びに当審第一三回(昭和三二年五月一四日)、第一四回(同年七月一六日)各公判廷における古畑種基の証人としての各供述及び当審鑑定人上野佐作成にかかる昭和三二年九月二四日受附鑑定書並びに当審における第二〇回(昭和三三年五月二四日)、第二一回(同年六月二一日)公判廷における上野佐の証人としての各供述を綜合すれば、右(ハ)、(ト)の傷のみならず、(イ)創の陥凹骨折の部分も本件竹割の先端と極めてよく合い、又右頭蓋骨の損傷中(ロ)、(チ)、(ホ)、(リ)、(ヌ)、(ル)、(ヲ)、(ワ)の各創及び実川ふさの右前膊部(ソ)創等も本件竹割によつて生ぜしめうる可能性の存することを認めうるのであつて、口唇の(リ)創は和裁用の鏝のような物によつては甚だ出来にくいものであることが認められるのであるところ、右古畑鑑定人の鑑定書及び公判廷における供述上野鑑定人の鑑定書及び公判廷における供述は何れも鑑定人としてその学識経験に基きその能力に応じて良心に従い誠実に鑑定し又供述したものであることは、その鑑定書の記載又正木弁護人の詳細厳密な質問に対し、理路整然と合理的なる供述をし、その供述には何等矛盾撞着ありとも認められず、事理に合する供述を為していることによつて明瞭に認めうるのであり、これらに彼此対照すれば宮内義之助の原審公判廷における右供述の信憑性は十分認めうるのであり、且つ当審における右鑑定及び供述によつて一層本件被害者の創傷が本件竹割によつて生じうる可能性のあることを肯認しうるのである。

ところで実川ふさの胸部に生じていた(カ)、(ヨ)の骨折は上野鑑定人の右鑑定の結果及び当審公判廷における供述によれば、このような損傷は本件竹割でも亦和裁用の鏝の如きものでも極めて生ぜしめ難いものであり、これは竹割や鏝よりも広い平面を持ち遙かに重量のある即ち大きい重い鈍体の強打によるものであることが認められ、そしてこの事実は右宮内鑑定人の昭和二九年六月二三日附鑑定書中の(カ)、(ヨ)の創傷は鈍器の強打によるものである旨の記載に符合するのであるところ、被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二二日附、同月二五日附各供述調書及び検察官に対する同月二七日附供述調書中に夫々被告人が倒れている実川ふさを足で蹴飛ばし、或はその胸の辺を何回か蹴つた旨の供述記載があり、この事実は(カ)、(ヨ)の創傷に照応し、これらの創傷は被告人の右所為に基因するものと認められるのである。

第五、次に竹割に血痕の認められないことにつき検討するに、原審鑑定人宮内義之助の昭和二九年五月七日附鑑定書及び同人の原審第四回(昭和二九年一二月一日)、第六回(昭和三〇年三月二日)公判廷における各供述、同じく原審鑑定人古畑種基の昭和三〇年四月二一日附鑑定書の記載によれば、本件竹割に血痕存在の認められないことは所論のとおりであるが、宮内鑑定人の右各公判供述及び古畑鑑定人の鑑定書の記載によれば、本件竹割に血痕が附着し、血痕が一時あつても砂をつけて強く水洗いすれば血痕は落ちてその検査が陰性となることもあることが認められるのである。

而して、被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二二日附供述調書及び検察官に対する同月二七日附供述調書によれば、被告人は本件竹割を一時は合同油脂の所から入つて七栄県道へ出る手前の山中の籔の中に隠匿しておいたが、後日これを取り出し川で砂をつけて水で洗い、自宅へ持ちかえり、元の道具箱の中に入れて置いた事実が認められて、竹割に血痕の附着していないのはこれに因るものと認められるのである。なお所論は本件竹割の柄には数個の裂目があり、若し血液がこれに附着すれば当然この裂目の中にも流れ込み、この流れ込んで出来た血痕は砂をつけて水洗いした位では完全にとれるものではない旨主張するのであるが、本件竹割の柄に附着した血液の量は不明であるのみならず、柄は掌で握つているのであるから、竹割の刃の方には相当多量の血液が附着したとしても柄の方には必ずしも血液が附着したものとも認められず、仮に附着したとしてもさほど多量の血液が流れ込んだものとは認められないので、裂目の中に迄流れ込む程の量の血液は附着していないものと認めうるのである。

なお仮に裂目の中に迄血液が入つたものとしても、銚子測候所長の千葉県警察本部捜査第一課長宛気象資料回答についてと題する書面によれば、昭和二九年二月一七日三里塚方面の気象は九時現在雨、午前並雨、午後小雨、翌一八日午前、午後とも小雨であることが明白であるところ、原審検証調書(昭和二九年九月六日附)、司法警察員の昭和二九年二月一八日附検証調書添附図面第一、司法警察員の昭和二九年四月二五日附実況見分調書によれば、被告人が本件竹割を隠匿した前認定の籔は三里塚国鉄バス停留所から約一、〇〇〇米の距離にあることが認められるから、竹割は籔の中に隠匿されている間に雨水に洗われているものと認められ、このことと前記水洗いをしたことが相俟つて竹割の柄の裂目に入つた血痕は除去されたものと認められるのであり、竹割の柄の裂目に血痕附着の痕跡がないからというて、本件竹割が本件犯行の用に供せられなかつたものとは認められないのである。

ところで、原審第七回(昭和三〇年三月一六日)公判調書中、証人小高利政、同小高博の供述記載によれば、同人等方に在つた本件竹割は昭和二九年二月一九日小高博が葉煙草の苗床を作るのに使用したというので、これは被告人の司法警察員及び検察官に対する本件竹割を二月一七日本件犯行の用に供した後被告人の本件窃盗事件の捜査が開始される頃迄山中に隠匿しておいた旨の供述に反するのであるが、証人小高博の右公判供述は同人の司法警察員に対する昭和二九年四月二五日附供述調書中、本件竹割は自分が昭和二〇年頃日本刀の柄に近い方で竹割に作つたものであつて、竹を割るのに使つた、何時も自家の蓋のある道具箱に入れてあるのだが、昭和二九年になつてからは一月から三月迄は使つたことはなく、四月二〇日に畑で使つた、その時は道具箱から持つて行つたのである旨の部分に又証人小高利政の右公判供述は被告人の右供述に夫々対比すれば、何れも信用するに足らないものである。

第六、着衣等の血痕について、

更に、原審鑑定人宮内義之助の昭和二九年四月二三日附及び同年五月七日附各鑑定書の記載に、原審第四回(昭和二九年一二月一日)公判廷における供述及び当審鑑定人上野正吉の昭和三一年五月一二日附鑑定書の記載に同人の当審第九回(昭和三一年一一月一三日)公判廷における供述によれば、押収にかかる黒色学生服上衣一着(昭和二九年領第一六九号の三)の右下外ポケツト内側木綿ぎれに蚕豆大及び米粒大の人血がついていてその血液型はO型であり、又紺色オーバー一着(同領号の四)の右外側ポケツト木綿地拇指大から半米粒大に及ぶ人血約八個あり、その血液型はO型であり、又オーバーの左襟にも約半米粒大の血痕らしいものが附着する事実が、更に被告人が二月一七日穿いていたゴム長靴一足(昭和二九年領第一六九号の五)の右方の内面外側部に血痕附着の事実が認められ、(なお前説示の如く昭和二九年二月一八日附司法警察員の検証調書の記載によれば実川ふさ方七畳座敷の畳の表面には足の裏に附着した血液が室内を歩いた為に着いたような相当数の血痕のあることが認められ、このことから考えれば、被告人の足の裏にも血液が附着したものと認められるが、それは畳の表面に更にふみつけられ、その附着度が薄められたと認められるのみならず、右ゴム長靴は鑑定人古畑種基の前記昭和三一年七月二一日附鑑定書及び被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二五日附供述調書によつて認められる、水もれのあつたことから考えて、雨の中を歩いたので血痕は洗われてしまい、その為にその内部足の裏の当る部分には血痕は認められないものと認められる。)右宮内鑑定人の実川ふさの屍体鑑定書及び昭和二九年五月七日附鑑定書によれば、実川ふさの血液型はOMQS型であり、被告人の血液型はAMS型、被告人の実父小高利政の血液型はAM型であることが認められるのである。そして原審第二回(昭和二九年八月一二日)公判廷における被告人の供述によれば、右学生服とオーバーは本件が発生した昭和二九年二月一七日当日着用していたものであることは明瞭なのであるから、この着衣に自己又はその近親者のものと認められない被害者の血液型と同系統と認められる血液が仮令少量と雖も附着していることは、その附着につき合理的な説明の与えられない限り被告人がその現場に所在したことの有力な証拠となりうるのである。

而して、右上衣は昭和二九年四月一三日、オーバーは同月二一日夫々司法警察員が前者は被告人から、後者はその父小高利政から任意提出されたものを領置したものであることは、被告人及び小高利政の各任意提出書とこれに対応する領置調書の記載によつて明白であるところ、実川ふさの屍体解剖は昭和二九年二月一八日医師宮内義之助によつて執刀終了していることは、その鑑定書の記載によつて明瞭であるから、宮内鑑定人において鑑定の必要上実川ふさの血液を或程度保管することのあるのは格別その他の者は捜査当局者と雖もこれを所持することはあり得ないことと認められるので、昭和二九年四月一三日或は同月二一日に至つて実川ふさの血液を何人かが右学生服上衣やオーバーのポケツト内に右鑑定書に記載れているように附着させることは到底不可能のことと認められるのである。従つて被告人以外の者によつてこれが附着せしめられたものとは認めるに由ないものである。

なお各ポケツト内の血痕は点々と附着しているのであるから、極少量の血液であつたり、又血液が乾燥して固まつてしまつては、そのような附着の仕方をしないものであることは疑のないところである。そうであるならば、手に附着した血液は相当多量であり、実川方を立ち去る前持つた洋傘、ゴム長靴にも血液は附着した筈であることも一応は考えられるのに、洋傘に血痕の発見されなかつたことは原審第七回(昭和三〇年三月一六日)公判廷における証人元山茂の供述によつて明かであり、又ゴム長靴の外側表面に血痕の存在しないことは前記当審上野正吉鑑定人作成の昭和三一年五月一二日附鑑定書の記載によつて明白である。しかし被告人の検察官に対する昭和二九年四月二七日附供述調書によれば、被告人は兇器を右手に持つて実川ふさを殺害したというのであり、この事実から判断すれば、被告人は所謂右ききと認められる(血痕は何れも右ポケツト内に在り。)から、被害者の血液は主として右手に附着したものと認めるのを相当とするのであるところ、被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二二日、四月二八日附各供述調書、検察官に対する同年四月二七日附供述調書及び前記銚子測候所長の気象資料回答によれば、被告人は本件竹割を合同油脂のところから入つて七栄県道に出る手前二〇米位の左側の土堤の入口の「ボサ」の中へ隠した事実が認められ、又被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一一日附供述調書によれば、被告人は合同油脂の入口から右に入つて七栄に行く県道に出るところで盗んだ金を調べた事実が認められるのであるから、これによれば、右竹割を「ボサ」の中へ隠すとき被告人は右手で竹割を「ボサ」の中へ入れた為、それで手が雨水で濡れ、その結果、それ迄右手に附着していた乾燥状態の血液が温つて再び流動状態となつたところを、その手を紙幣等を数え調べるべくポケツトに入れたので、その血液がポケツト内の木綿裏地に附着したものではないかと推認しうるのである。

そして、綿布の方が毛織物より血痕等附着し易いことは実験則上明らかであるから、毛織物であるポケツトの各入口には附着しなかつたものと認められ、又上衣、オーバー双方のポケツト内に血痕の存在するのは、突嗟の間何れのポケツトに窃取した紙幣等を入れたか失念していたので、両方のポケツトに夫々手を入れた為に附着したものと考えられるのである。

それから洋傘の柄に血痕の存在しないことは一見まことに不自然の如くではあるが、右手についた血液が未だ流動状態である内に右手で洋傘の柄をもつたという確証がないのみならず、已に説明したとおり、右手は竹割を握つていたので、その手の甲や指先には血液が附着したとしても掌には必ずしも血液が附着したものとも認められないから、洋傘の柄に血痕が存在しないとしても特に不合理とは認められないのである。又ゴム長靴の外側表面に血痕の認められないのは、仮にその外側表面ゴムの部分に血液が附着したとしても、雨水によつて容易に洗い流されることが認められるのである。その外側表面に血痕の認められないのは不合理ではない。又所論は本件実川ふさを殺害した犯人には手のみならずその着衣の表面にも血液は相当量附着すべき筈であるのに、本件領置の上衣、オーバーの表面には何等血痕の現認されないことは、被告人が犯人でないことを証明するものである旨主張するのであるが、司法警察員勝山喜久治作成の昭和二九年二月一八日附検証調書の記載によれば、被害者の血液は相当広範囲に飛散していることが認められるのである。よつて犯人の着衣の表面にも血波が相当量附着すべきものと一応は推測せられるのであるが、飛散した血液の量はさして多量のものとは認め難いから、被害者と犯人の身体の位置如何によつては必ずしも犯人はその身体に被害者の血液の飛沫を浴びたものとも認められないのである。ところがオーバーの左襟には半米粒大の血痕らしいものが附着していることは前説示のとおりであるのみならず、被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二四日附供述調書中には、被告人が同年二月一九日朝二月一七日着ていたワイシヤツを着るとき見ると右の袖口に血が米粒位の大きさでポチヤツポチヤツとついていたのであるが、そのまま着てズボンを穿こうとしたとき父に文句を言われ反抗したので、父と兄に殴られて鼻血が出たり首の辺も少し血が出てそのワイシヤツが汚れたのであるが、そのままにしておき二一日朝風呂場で血のついた処を自分でつまみ洗いをしたという供述記載があり、これによれば、被告人が犯行時着用していたワイシヤツの袖口には多少被害者の返り血が附着した事実が認められ、着衣の表面に全く血液の飛沫を受けなかつたものではないことが認められるのである。

又所論において疑問とする如く本件上衣、オーバーの各ポケツト内の血液が捜査当局者によつてつけられたものと仮定すれば、当然上衣かオーバーの表面等にも血液を附着せしめたであろうのに、何故ポケツト内側のみにつけて表面につけなかつたものか、所論においてはその理由の合理的説明は何等為されていないのである。上衣、オーバーの表面に明瞭な血痕の存在していないことは寧ろ所論の如き疑の事実が全くなかつたことを物語るものに外ならないものと認められる。

なお二月一七日被告人が着用していたズボンは被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二四日附供述調書によれば二月十七日以後に洗濯の為されたものであることが認められるのである。故にこれに血痕が認められないのは当然である。

第七、足跡の点について、

次に進んで、足跡の点につき判断するに、押収にかかる石膏型(昭和三〇年領第四六号の四)に現われている足跡と、押収にかかるゴム長靴(昭和二九年領第一六九号の五)の足跡とが一致しないことは当審における古畑鑑定人の昭和三一年七月二一日附鑑定書によつて明瞭である。ところで、石膏型に現われている足跡は、原審証人勝山喜久治の昭和二九年九月六日附証人尋問調書、司法警察員勝山喜久治作成の同年二月一八日附検証調書によれば、実川ふさ方裏手台所から炊事場に出て炊事場の西側出入口の開戸から同家西側路地に出た箇所に在つた足跡の内、石膏型が採取し得た二個の足跡の内の一個であることが認められるのである。(他の一個は原審証人元山茂の昭和三〇年一月一〇日附尋問調書によれば萩原警部補が穿いていた靴の跡であることが認められる。)そして被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月一一日、同月一三日、同月二二日、同月二五日附各供述調書、検察官に対する同月二七日附供述調書によれば、被告人は実川ふさを殺害した後同家を立ち去る際右炊事場西側の開戸から外へ出た旨夫々供述しているのであるところ、そこに存在した足跡が被告人が当日穿いていたゴム長靴の足跡と合致しないということは、被告人がその供述する如くには同家に行つていないことを示すものであつて、被告人を本件強盗殺人の犯人と認めるに足りない一証左の如くにも見えるのである。

しかし乍ら原審証人大宮きよ、同大宮正一郎の各証人尋問調書及び同じく原審証人元山茂の昭和三〇年一月一〇日附証人尋問調書の記載によれば、昭和二九年二月一八日朝大宮きよが本件発生を知つて、これを捜査当局へ通報し、司法警察員が現場に到着する迄の間に実川方台所、炊事場に迄犯人以外の氏名不詳の相当人数の者が立ち入つた形跡が認められるのであつて、なお捜査当局者の靴の足跡迄存在することは前述のとおりであるから、そのような箇所に何人のものか不明である足跡があつたとしても、これをもつて被告人が犯人であることを覆すに足りる適格な証拠とは認め難いのである。

第八、所論中原判決は自白のみで事実を認定した旨主張する部分について、

次に所論は原判決は被告人が実川ふさ方から金八七〇円を窃取した旨認定しているが、これは被告人の自白以外に客観的証拠は存在せず、又被告人の司法警察員に対する昭和二九年四月二二日附供述調書によれば、実川方北側押入の向つて左側襖を一枚あけて、上段の手前に横に置いてある蓋のない竹行李のボロの中からハトロン紙に包んだ札のようなものを盗んでオーバーの左の内ポケツトに入れ、又行李の中へ手を入れたら隅の方に一〇円硬貨が七、八個あつたので、ポケツトに入れ又かき廻している処へ、婆さんが起きて来たというのであるのに、右司法警察員勝山喜久治作成の検証調書中には実川方北側押入の左側襖一枚は殆んど開けられたままで、下段にはりんご箱、石油鑵、鉛筆束等商品、紙屑が割合よく整頓され、上段には毛布三枚、掛布団、将校用外套、行李三個、新聞紙等が雑然としているが物色の跡は見受けられない旨の記載であつて、以上は窃盗につき自白を補強するに足りる証拠がないのに、自白のみで犯罪事実を認めた法律解釈の誤が存在するというのであるが、なる程実川ふさ方において金八七〇円の現金被害のあることの具体的証拠の存在しないこと、被告人の司法警察員に対する所論昭和二九年四月二二日附供述調書のみならず、同じく司法警察員に対する同年四月一一日、一三日附各供述調書及び検察官に対する同年四月二七日附供述調書には所論実川方押入の中に在つた行李を物色して一〇〇円紙幣、一〇円硬貨を窃取した旨の供述記載があるのに、所論検証調書には右押入、行李等物色された形跡は見受けられない旨記載されていることはまことに所論のとおりである。ところで、被告人の右供述する程度の物色の仕方では、行李の内が整然としていて多少でも物色すれば、直ちにそれと判る程度であれば格別、元来乱雑に衣類等が容れられていれば、後日他人がこれを見ても物色したものであるか否か確認し得ない場合のあることは当然と認められるのであるが、右検証調書添附の写真No. 17、19によれば、右行李の内は整然としていたものとは認められず、寧ろ雑然と衣類等が容れられていたものと認められるのであるから、検証調書に物色した形跡が認められない旨の記載があつても、被告人の右物色した旨の供述が客観的事実とくい違うものとも認められないのである。兎に角右検証調書によれば、被告人が物色した実川方北側押入の向つて左側上段には被告人の供述するとおり行李の存在することが明瞭に認められるのである。

而して、窃盗の事実につき被害状況の具体的証明がなくても、犯人が金員を窃取したと述べる場所が客観的事実と一致するような場合(但し犯人が常時その場所に出入し、その場所の状態を熟知している場合は別である。而して被告人は二月一七日以前にも数回実川方に行つてはいるが、押入の内部迄も熟知していたものと認めるに足りる証拠は存在しないのである。)にはそれは自白の真実性をば裏付けているものと云えるのであつて、このようなのは自白を補強するに足りる証拠の存する場合と認めるに十分なのである。原判決は窃盗の事実につき自白のみでこれを認めた違法の存するものではない。のみならず、本件は強盗殺人事件であるから、金員窃取の点は自白のみでこれを補強するに足りる具体的証拠がなくても、殺害の被害者の存在する限りは自白のみによつて事実を認めたことにはならないのである。何れにしても原判決には自白のみによつて犯罪事実を認めたという違法の存するものとは認められない。

第九、本件犯行は痴情関係に基く、旨主張する点について、

なお所論は被害者実川ふさには情夫があつたので、本件犯行は痴情関係から生じた怨恨に因るものである旨主張するのであるが、当審における証人生駒明、同生駒ハナの各証人尋問調書及び証人実川芳男の当審第一九回公判廷における供述を綜合すれば、実川ふさは生駒明と数年来情交関係を続けていたことはこれを認めることはできるけれども、その為に実川ふさを極度に怨んでいる者があつた事実を認めるに足りる証拠は何等存在しないのである。本件犯行が痴情関係に基く怨恨に因るものとは認めるに由ないものである。

その他本件記録に現われている凡ての証拠を逐一検討考量しても原審右認定に誤ありとは認められないのである。

以上のとおりで、原判決には所論の如き採証法則違背、事実誤認の違法はもとより、訴訟手続上の法令違背も存しない。

論旨は要するに原審の採用しなかつた証拠によつて他の事実を主張する独自の見解であつて、理由のないものである。

なお五木田弁護人の論旨中量刑不当を主張する部分は、原判示第二の強盗殺人の点が無罪であることを前提とするものであるところ、前説示のとおりで、原判示第二事実を無罪とする理由は存在しないのであるから、その前提を欠くので、理由のないものである。

よつて本件控訴は理由がないから、刑事訴訟法第三九六条に則りこれを棄却すべきものとし、当審における未決勾留日数中八〇〇日を刑法第二一条によつて、被告人が言渡された本刑に算入すべきものとし、当審訴訟費用の負担については刑事訴訟法第一八一条第一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 山本謹吾 判事 渡辺好人 判事 石井文治)

弁護人神垣秀六の控訴趣意

第一点原判決には判決に影饗を及ぼすべき重大なる事実誤認の疑がある。

原判決は判示第二事実に於て強盗殺人の事実を認めている。然し私はこの事実認定は誤認であると思料する。以下卑見を具申する。

第一、原判決に於ては司法警察員作成に係る被告の供述調書が事実認定の基本的な証拠となつている。

一、この供述調書は係員の前頭部を突くとか毛髪を引張るとか左様な暴行に依つて出来たものであつて被告の任意供述に依るものでない。この事実は被告の原審に於ける供述によつて明白である。従つてこの供述調書は証拠能力なきものである。

二、仮りに証拠能力ありとしても次の如き事由で信憑力なきものと信ずる。

(一) 犯行に用いたと云う兇器についての供述が怪しい。被告は兇器について(イ)釜屋の中にあつた鉄の棒、(ロ)店の箱の処に在つた丸太、(ハ)十五日学校に行くとき拾つて風呂場の土台の下にかくして置いた長さ三十センチ位太さ径二センチ位の金の棒、(ニ)十五日朝富里村根木名分校の物置内から喧嘩を吹きかけられたときの用意として持ち出しかくして置いた長さ五十センチ位の金棒と四回に亘つて供述を変えている。尚原審元山証人(係警察員)の証言に依れば被告は十四回も兇器についての供述を変えたとのことである。而して以上兇器についての供述は総て虚偽の供述である。被告は何故に斯様な虚偽の供述を為したか理由を述べていない又その理由についての訊問もしてない。これは被告の兇器についての供述が自発的の供述でなく係員の誘導に依る虚偽の供述であるから係員の方では虚偽の供述を為した理由は聞けない又被告の方では理由を述ぶることは出来ない結果ではないかと思う。偖て被告は犯行を自供した否な被告に犯行を自供させた。然し犯行に副う兇器がない。換言すれば自供の裏付となるべき証拠即ち、補強的証拠がない。係員は困り果てた揚句本件の竹割に思いついたのである。竹割は係員が最初に即ち四月八日に被告宅を捜索したとき既に現認していたものである。以上の様に兇器不明の結果係員は困り果て、現存することが確実である竹割に思いつきあれではないかあれですと云う風に竹割が捜査面に登場したのだと思う。偖て竹割を登場させたものの何人が見ても竹割には血痕の附着その他兇器と認むべき痕跡がない。それで水で洗つただろう砂を以て血痕をこすつた後洗つただろう、そうですと云うことになつて兇器は竹割也との結論に到達したのだと思う。然し訴訟の現段階に於ても被告の自供以外に竹割が兇器であるとの確証はない。従つて捜査の段階に於て係員が竹割は兇器でないと認めて被告に対し他の兇器を求めたならばおそらく被告は他の兇器を自供したに相違ない。これは元山証人も原審に於て肯定している。凡そ強盗殺人の犯人が犯行を自供する際は悔い改めているに相違ない。その自供が真実の自供であるならば兇器の点についてのみ嘘を云つても仕方がないとあきらめているから嘘を云うことはない。それは兇器の点についてのみである。被告は犯行を自供している。然しその自供が嘘の自供であるから兇器の点について真実の供述が出来ないのである。被告が兇器はあれだこれだと十四回も変えたが皆嘘である。最後に登場した竹割も愈々これだと云う確実性は自供以外には皆無である。

(二) 犯行の時刻に関する供述が間違つている。被告は昭和二十九年二月十七日午後八時頃成田駅前発国鉄バスに乗車し遠山中学校で下車して被害者の家即ち犯行の場所に行つたと供述している。この供述が基本となつて犯行の時刻は午後九時頃となつている。然し被告は同日午後九時五分成田駅前発京成バスで小倉好なるものと共に帰途につき午後十時頃帰宅したものである。この事実は原審証人小倉好、飯田ハル枝、三木ぎん、伊藤米子、半田四郎、小高りうの各証言並に京成バス会社の証明書測候所の天候に関する証明書等を綜合すれば間違ない事実である。以上兇器についての供述又時刻に関する供述等からみて司法警察員作成に係る被告の供述調書は俄に信用することは出来ない。即ち信憑力なきものである。

第二、原判決に於ては押収に係る竹割、頭がい骨学生服並に外套に附着していた血痕等が裏付証拠即ち補強的証拠として採用されている。然しながら、一、兇器と認定されている竹割には血痕なし又曾て血液が附着したことがあるかどうか判らぬものであるこの事実は古畑、宮内両鑑定人の鑑定書に依つて明瞭である。二、被害者の頭がい骨には傷痕がある然し宮内鑑定人の言に依れば右竹割で出来たものであるかどうか判らぬ但し竹割でもその様な痕が出来る可能性はあると云うことである。私は素人である然し前頭部に当るきずは右竹割を如何に使用して打撃を加うれば左様なきずが出来るか宮内博士の説明では納得出来ぬ。又目の上に当るきずは右竹割の先端と合致する然し左様に合致する様に見事にこの鈍い刃の竹割でざつくりと骨が切れるものであるかどうか納得出来ぬ。三、押収に係る学生服のポケツトの内側並に外套の襟には血痕がある。宮内鑑定人の説明に依ればその血痕の血液型はO型であることだけは判る。然しO型の如何なる部類に属するものであるかは不明である。従つてこれが被害者の血液型のOS型と果して同一部類に属するものであるかどうかは判らぬと云うのである。右の様に主要な補強的証拠は何れも確実性のないものである。従つてこれは事実認定上積極的の証拠ともなれば消極的の証拠にもなり得ること敢て言を要しない。叙上具申した様に原判決が採用している犯罪事実認定についての基本的証拠たる被告の自供調書は信憑力のないものである又前記の補強的証拠は何れも確実性のないものである。然るに原判決は斯様な曖昧模糊たる証拠を以て被告に対し強盗殺人の事実を認定している私は疑わざるを得ない。

第三、本件は強盗殺人であるかどうかの点は別として殺人行為があつたことは明白である。被告は犯人にあらずとせば何人が犯人であるかの問題が生ずる。私は次の様な状況から判断して犯人は被告以外にあると思つている。一、原判決に依れば本件の犯行時は昭和二十九年二月十七日午後九時頃である。然し前述の如く被告は同日午後九時五分成田駅前京成バスに乗車して帰宅したのであるから犯行時に於ては成田にいたか又はバスの中にいたことは明瞭である。二、本件犯行の行われたとき被害者方の屋内は内側から戸締がしてあつたことは検証調書に依つて認めることが出来る。この事実から判断すれば被害者と極めて懇意な者例えば情夫と云う様な者が被害者方にいたのではないかとの疑が生ずる。三、宮内鑑定人の鑑定書に依れば被害者が被害の時使用していた腰巻には精液が附着している。その血液はO型である。而かもその腰巻は精液附着後洗濯がしてないことは間違ない。この事実は被害者は五十七才の老婆であるが尚情交の相手方を持つていたことを物語るものである。四、又本件犯行が余りに惨虐である。被告が犯人だとせば何故に逃げるだけ殺すだけの為めに斯様に惨虐な兇行を為さねばならぬか不可解である。五、本件の現場検証調書に依れば被害者の傷からは多量の血が流れ出ている。血しぶきが飛んでいる。天井や、壁にまで血痕がある程である又勝手口の輪鍵等にも血痕が残つている。これ等の点から見て犯人は大変血を浴びていると思わねばならぬ。然るに被告が犯行の時着ていたと云われるオーバーの表に血痕のないのは不思議である。又学生服のポケツト内の血痕は強取した金の出し入れの際附着したものだと云われているがそれほど手に血が附着していたならば服やオーバーの表面にも多量の血が附着しそうに思う。然るに左様な事実はない。斯様に考えるとき私は原判決の事実認定は誤りではないかとの疑を益々深くする。当審に於ては慎重審議の上原判決を破棄し被告に対し無罪の判決を賜り度い。

論旨第二点 原判決は証拠能力なき被告の供述調書を証拠として採用している違法がある。

原判決に於て採用している司法警察員作成に係る被告の供述調書は論旨第一点中の第一の一に於て主張した様に係員の暴行に依つて強制的に出来上つたものである。決して被告の自由な意思に依つて出来たものでない。この事実は被告の原審に於ける供述に依つて認むることが出来る。従つて原判決は刑事訴訟法第三百十九条に違反するものである。而してこの証拠なくしては被告に対し強盗殺人の認定は出来ないこと明瞭である。原判決は破棄せらるべきものである。

弁護人五木田隆の控訴趣意

一、原判決は採証を誤りたる重大なる事実の誤認である。

原審裁判所は弁護人の主張する事実中、窃盗について一部是川義則分の無罪を認めたが強盗殺人については有罪なりと認定しているものでこれは原審裁判所が証拠の採用に重大なる誤を犯して事実を認定したものでその破毀は免れないものである。

弁護人は以下強盗殺人についてのみ無罪なる理由を主張する。

(一)、被告人は本件当日である昭和二十九年二月十七日午後九時頃には現場より距ること十キロ余りの成田市に居つたという確実なるアリバイが存在している。そのアリバイを明らかにする前提として本件犯行の推定時間を明らかにする必要があるので証拠に基き検討すれば本件犯行は昭和二十九年二月十七日午後九時頃か九時十分位前と推定するのが最も確実なることのようである。(イ)当夜の現場附近に於ける客観的現象は、(1) 実川ふさ方でのバタンという物音、(2) 実川方より三里塚方面へ向つて県道を走るゴム長靴のようなバタコンバタコンという足音、(3) 三里塚より成田へ向つて走るハイヤーのエンジン音の順序により進んでいたものと思われる。証人大宮きよ証人大宮正一郎等の検察官質問中の証言参照、且証人大宮きよは(2) と(3) の間は十分位証人大宮正一郎は(2) と(3) の間は三分-四分位と夫々証言して居りハイヤーの通過する三分-十分位前に本件犯行が行われたと推定すべきである。(ロ)然らばハイヤーは何時頃通過したか調査すれば該ハイヤーは成田市所在成田タクシーでしかも通過した時間は午後九時五分-十分位であると思われる。該タクシーは(1) 事件当夜三里塚大竹屋まで成田より客を送り、(2) 四十分位待つて午後八時四十五分頃三里塚出発成田に向い、(3) 三里塚小学校前停留所の処から約七、八十米位成田寄りの処で成田発多古行の国鉄バスと交換した、の順序で動いたもので、成田タクシー運転士中野尚孝の警察官に対する供述調書、国鉄バス運転士磯部秀男の警察官に対する供述調書等によれば(3) のバスとタクシーが交換した時間は八時五十五分か一寸過ぎ位であることを確認しているのでハイヤーが本件現場を通つたのは十分-十五分後の九時五分か十分頃であると推定し得る。中野尚孝警察官に対する供述調書、磯部秀男警察官に対する供述調書。又取調捜査官も本件犯罪は昭和二十九年二月十七日午後八時五十分-五十五分迄の間に行われたと確信している。証人元山茂に対する昭和三十年一月十日附弁護人の質問に対する証言参照。若し犯行推定時間を一時間ずらし午後九時五十分-十時頃と仮定すれば、(1) 犯行前にハイヤーが通つてしまい、(2) 中野尚孝と磯部秀男の供述がくい違つてしまい、(3) 証人大宮正一郎の犯行後にハイヤーが通つたという証言と矛盾するので犯行推定時間は午後八時五十分-五十五分であるという動かすことの出来ない確実なる時間である。(ハ)被告人は犯行推定時間の八時五十分-五十五分頃には成田市成田の平和パチンコ屋にいたという確実なる時間的アリバイがある。被告人の事件当日の足取りは、(1) 朝七時頃学生服オーバー風呂敷包に教科書ノートを包み洋傘長靴で出掛けた。(2) 午前九時頃国鉄バス三里塚駅につき一時間程遊んで午前十時過ぎ頃三里塚小学校前停留所に行き午後一時すぎまで成田行のバスを待つていた。その間一台来たバスは満員で乗れず待つて居る間牛馬商の高木克己、太田一に会い話合う。(3) 午後一時五十分頃漸くバスに乗り遠山中学校前で下車(被害者)実川ふさ方へ寄り一時間半位世間話をしていたその間三里塚並木パン屋の配達夫橋本正治が卸に来て会う。(4) 午後四時頃のバスにて成田へ行き平和パチンコに勤めていた友達の小倉好を尋ねた。(5) 午後五時頃飲食店美喜本へ行き映画に行つていた女中まり子を呼んで貫いレコードを掛けたり話したりして中華そばを食べまり子にも馳走して百円支払う。(6) その後再び平和パチンコ店に行き遊んで居り友達小倉好と二人で京成成田駅前発成田バス多古行終バスで帰宅したものである。第四回公判調書弁護人に対する被告人の供述参照。ところが捜査官は被告人の足取りを事件に結びつけるため(1) より(5) までは同様であるがその後国鉄成田駅前発国鉄バスにて遠山中学校前下車被害者を襲つたと供述せしめている。夫等の何れが真実であるかを検討するにはその日の被告人の服装所持品を明らかにする必要がある。被告人の事件当日の服装所持品は、黒学生服、オーバー、風呂敷包、長靴、洋傘であつた。証人太田一、証人高木克己、証人飯田春江、証人小倉好の弁護人質問に対する証言参照。検察官は被告人の足取りが被害者実川方を襲つたものであるとの証拠として当日午後七時二十分頃発の国鉄バスに乗車した。証人高仲喜一、証人神崎喜太郎の証言をあげているが何れも弁護人の質問に対し被告人が乗つた事実を確認していない。反つて証人太田一に対する弁護人質問中学生風の男は乗つていなかつた事実を確認していることよりして被告人が当夜国鉄バスへ乗つたという証拠は何等存在していない。それに反し被告人並に弁護人主張の足取りは有力なる裏づけの証拠がある。証人小倉好は弁護人に対し(1) 被告人が来たのは四回で昭和二十九年二月十七日は来た。(2) その日に被告人より就職の事を頼まれる。(3) 午後九時五分京成成田駅前発成田バス多古行終バスにて一緒に帰る。(4) そのバスはセミロマンスという型のバスであつた。と証言し、更に証人半田四郎は弁護人に対し、(1) 昭和二十九年二月十七日は多古行の終バスを運転した。(2) そのバスはセミロマンス型である。(3) それは運転日報により判る。と証言し、且弁護人より書証として提出した成田バス株式会社発行に係る(1) 成田発多古行終バス勤務者及び車輛型の証明書、(2) 成田バス路線と所要時間の証明書等によれば被告人は友達小倉好と二人で京成成田駅九時五分発の成田バス多古行の終バスで帰つたことが明らかである。又小倉好の証言の真実性については、(1) 小倉は印旛郡富里村大和より天気の日は自転車雨天の日はバスで通勤していたもので、(2) 弁護人提出の当証銚子測候所の天候鑑定書によれば昭和二十九年二月十七日は雨で通勤には自動車を利用したと思われる。(3) しかも小倉好が被告人と一緒に帰つたのはたつた一回きりであつてバスはセミロマンス型であつた。(4) 成田バス株式会社の運転日報によれば昭和二十九年二月十七日終バスはセミロマンス型であつた等よりして充分証明し得るものであつて弁護人が真実をまげて証言せしめたのではないかという疑問の余地はない。それのみか証人飯田春江は弁護人に対し、(1) 被告人は平和パチンコへ四回程来た。(2) 一回目は被告人は友達と美喜本へのみに行き小倉は一人でバスで帰る。(3) 二回目は被告人は洋傘を持ち風呂敷包を店に預けたので私がそれを開けようとして被告人から注意された。(4) 三回目に来た時被告人が小倉好に魚寅パチンコ屋の就職の件の結果を聞いた。等と証言していることより考えれば被告人が小倉好の勤める平和パチンコ屋へ洋傘と風呂敷包を持ち昭和二十九年二月十七日午後四時半頃寄り共に終バスで帰宅したものと認定すべきである。仮りに昭和二十九年二月十六日に来たとすれば、被告人と一緒に来た友達、被告人の持参した風呂敷包、被告人の就職依頼、帰りのバスの型等の諸点について小倉好と飯田春江の証言が矛盾して合致しなくなる。従つて被告人は本件犯罪の推定時間である午後九時一寸前頃には未だ成田市の平和パチンコ屋に居つたという確実なる時間的アリバイが存在して居り本件犯人に非ざることが明らかである。又被告人が小倉好と二人で終バスに乗り根木名停留所に降りてから被害者実川方を襲つたとすればバスの根木名到着が定時で午後九時二十八分であるからそこより被害者方まで三十分-四十分を要するので本件現場へは早くて午後十時頃に到着したものと考えられる。さすれば本件犯行の推定時間とは合致せず犯行をし得ないものといわねばならない。

原審裁判所は斯る確実なる証拠に基いて事実を認定せず被告人を犯人なりと認定したのは重大なる事実の誤認であると言わねばならず破毀を求めるものである。

(二)、検察官の提出した証拠物は信用性極めて乏しいもので採用すべきではない。

検察官は被告人の当日着用して居たオーバー学生服にO型の血液痕がついて居たとして提出するもその血液型は単なるO型のみで細分された型についての鑑定は出来ず科学的には被害者のOMQS型と一致するとはいい得ない。ましてO型なるものは比較的多数の人の型であつてそれのみを以てして被害者の血液と同型だとは断定し得ないものである。何故ならば、被告人の学生服オーバーの血痕の附着し方が極めて不自然であるからである。本件現場の実況見聞調書添附図面殺害個所の側面状況と題する図面によれば庇の天井に迄流血が飛びNo. 4殺害現場及座敷の状況と題する図面によれば隣室の七畳迄血液が落ちている事よりして本件犯人は相当の流血を浴び又兇器につけたものと解すべきである。即ちポケツトの内部などでなく学生服オーバーの表面に又はポケツトの入口附近に相当量の血痕が附着せねばならない筈であるにも拘らずポケツトの内部布片にのみ附着して入口に全然附着せぬ等吾人の常識を以て解釈し得ない事実である。然らばオーバー学生服についた血痕は何によつて出来たかその合理的な説明が出来ない限り被告人が犯人ではないかとの疑問はあるが右衣類は被告人が逮捕まで着ていたものであるからその間に血痕が附着していたとすれば被告人が犯人である限り相当注意して血痕に気附く筈である。被告人は犯人に非ざる故に着用していた衣類等につき何の疑問も持たなかつたものである。否取調捜査官に於て被告人を犯人にデツチ上げるべく故意にO型の血痕を附着せしめた疑がある。何となれば仮に自然に被告人の手により附着したとすればポケツト入口に附着せしめないで内部布片のみに附着せしめることは物理的に不可能である。まして実況見分調書にある如きの流血飛血によつて犯人の手も相当血痕に汚されていなければならずその手の血液が他に附着しない筈はないからである。又本件の兇器を推定されている竹割きは被告人の家庭にあつたもので殺人事件に使用したという事実はない。(1) 被告人は竹割きを自供する迄十四回も変化して漸く出て来たものである。(2) 竹割きを鑑定してるみのーる反応を試みても、第一回宮内義之介教授 陰性第二回古畑教授 陰性 等柄の内部迄検査しても血痕を検出する事は出来なかつたものである。証人宮内義之介は、加害者の手に血が附くならば柄の中にも血は入つている可能性はあると思います。と証言し本件兇器には相当の血痕が附着したであろうことを裏附けている。それにも拘らず血液の反応がないとは本件竹割きが兇器に使用したものではない為である。又砂をつけて水洗いしたとしても柄の内部にまで附着した血痕は到底水洗し得るものではない。(3) 被害者には本件竹割きによつてのみ出来得る傷痕はない。証人宮内義之介は、本件の場合どんな兇器にでも可能な傷があるので必ずしも一個の兇器によつて出来たのだとは思われず又何個の兇器により出来たのかはつきり判りません。と証言し竹割きにより出来たとは断定していないただ頭頂部の骨折が竹割きの尖端の内線と一致する前額部の穿孔が竹割きの先端の幅に一致する。という点があるがそれは竹割き独特の形状をあらわしているものでなく且頭頂部に於ては頭表皮の傷と骨折の具合が本件竹割きにては不可能であると思われる。弁護人は此の点につき更に鑑定を求めたるも採用しないで却下したのは原審裁判所に科学的な審理をする熱意がないといわねばならない。

(三)、被告人の自白調書は捜査官が現場に臨み想像した犯行想像図を被告人の口を借りて演出せしめたもので信用性極めて乏しいものである。何となれば、(イ)兇器が十四回に亘つて変化して居り又兇器と推定する竹割きを持出した日が一定していない。昭和二十九年四月十六日警察官に対する供述調書では昭和二十九年二月十五日持出したと供述し、昭和二十九年四月二十二日警察官に対する供述調書では昭和二十九年二月十六日持出したと供述し、しかもかくした場所が一定していない矛盾がある。(ロ)被告人は猫でもないのに夜、川の水がにごつて居るのが判つたという不自然さがある。昭和二十九年四月二十八日附警察官に対する供述調書では、今までの供述調書を犯行現場の状態になるべく近づいた供述調書にすべく相当詳細に供述を訂正して居りそれ丈けでも何かしら不自然さがあるにも拘らず五項には私が前申上げた根木名川の地蔵様の処で手を洗つた時には水がにごつて居りましたが水の量は竹割きを洗つた時も又此の間案内して写真をとつた時も同じ位であつたと思います。と供述せしめている。これは捜査当局が竹割きにるみのーる反応をしても陽性にならないので、(1) 犯行に使用したこと、(2) 犯行の夜手を洗い、(3) 竹割きをその後洗つたこと等を真実らしく供述せしめようとして余り技巧的に作文しすぎた失敗である。上手の手より水が洩れるとはこのことで捜査当局が被告人を真犯人にデツチ上げるべく懸命に努力し策におぼれ過ぎた大きなミステークである。(ハ)被告人の昭和二十九年四月二十日附警察官に対する供述調書中昭和二十九年二月十七日の金の使途明細は全く虚偽である。右供述調書によれば昭和二十九年二月十七日には、遠山中学校前バス 十円、パン二個 二十円、りんご一個 十三円、遠山中学-成田駅までのバス 二十円、美喜本そば代 四十円、平和パチンコでの遊金 六十円、合計百六十三円使い財布の中には二十二円しか残らなかつたので成田バス根木名までは三十円で乗れず国鉄バスで遠山中学校前迄二十円でのつたということになつている。然しこれは重大なる矛盾虚偽がある。証人伊藤米子に対する検察官質問中(1) 昭和二十九年二月十七日午後四時被告人が来た。(2) 其の時被告人は中華そば一杯たべ私も一杯馳走になつた。(3) 代金は一杯四十円で二杯分八十円ですが百円札を出し二十円はチツプとして私にくれたと証言している。さすれば右供述調書中被告人は美喜本そば屋でもう六十円使つたことになつているので前記計算にあてはめれば逆にマイナス四十二円となる。数学に於てはマイナスと言うことは可能だが財布の中でマイナスという数字は不可能でありいかに警察官供述調書が出鱈目であるかが判るものである。(ニ)それのみでなく被告人の提出した金銭使用区分表は更に出鱈目極るものである。右区分表では、自昭和29、2、21至昭和29、3、5使用総額は一、一五〇円であり、婆さんの所よりとつた金八七〇円、母より貰つた金三〇〇円合計一、一七〇円であるから昭和二十九年三月五日牧場より給料五四〇円貰うまでは残つた金が二、三十円であると述べている。然し弁護人提出の書証下総御料牧場長田中二郎作成に係る給料支払証明書によれば牧場の給料として、自29、2、25至29、2、28まで一日一八〇円の割により五四〇円を昭和二十九年三月一日に支給している。従つて被告人が提出した金銭使用区分表が捜査官に迎合する様巧に作られていることが判る。しかし乍ら真実は巧まずして表われるもので被告人が無理にかかされた出鱈目のものであるということが明らかである。右(イ)(ロ)(ハ)(ニ)の如き事実があるので被告人の警察官並に検察庁に於ける供述調書は矛盾虚偽に満ち満ちたものであり信用性極めて乏しいと言わねばならない。

二、原判決は法律の解釈を誤りたる違法がある。被告人は強盗殺人罪をもつて起訴されているものであるから金銭を奪つたという被告人の自白のみでなくそれを裏づける証拠がなければならないことは刑訴第三百十九条の明示する処である。本件強盗殺人に於ても(1) 被害者は八七〇円奪われたとか、(2) 被告人が八七〇円奪つて斯く使用したとか(3) 相当物色の跡があるとか、について証拠があつてこそ強盗の点を認定すべきである、処が、(1) 被害者は事件当夜どの位所持金があつたかについて帳簿もなく又家族も別居して明らかでないのみか八七〇円だけ不足していたという積極的な証拠は何もない。(2) 被告人が八七〇円奪つて使用したということの証拠としては被告人の提出した金銭使用区分表のみである。その他成田警察署長宛の上申書に犯人である旨の記載があるがそれとても八七〇円奪つた点の直接証拠ではない。且金銭使用区分表はさきに論述した通り極めて信用性乏しき迎合上申書であるからそれ等をして八七〇円奪つた点の証拠には到底なし得ないと言わねばならない。(3) 成田警察署警部補勝山喜久治作成に係る検証調書中二、被害現場及び附近の模様、2内部所見、(ロ)には、北側押入の左側一枚は殆ど開けられたままであり下段にはりんご箱石油罐鉛筆束等や商品紙屑が割合よく整頓され上段には毛布三枚掛布団、将校用外套行李三個新聞紙等が雑然としているが物色の跡は見受けられないと記述している。ところが被告人の昭和二十九年四月二十二日警察官供述調書には八、左の方の襖をそつと一枚あけて上の段の手前に横においてある蓋なしの竹行李のボロの中からハトロン紙に包んだ札のようなものを盗んでオーバーの左の内ポケトに入れて又行李の中へ手を入れたら隅の方に十円貨が七、八枚あつたので之を盗んでポケツトに入れ又かき廻している処へ婆さんが起きて来て云々と述べ相当物色したことになつている。この点犯行現場の忠実なる描写である検証調書と重大なる点に於て符合しない矛盾がある。被告人が本当に殺し金を奪つたものならば自白調書通り物色の跡歴然たらざるを得ないわけである。その跡もないというに至つては被告人の供述が凡て真実でないという事の裏附けである。されば被告人にとつて強盗罪としての裏づけ証拠は何もないものであるから強盗の点については勿論殺人についても当然無罪たるべきである。それにも拘らず原審裁判所は強盗の証拠を明示することもなく凡て有罪なりと認定したのは刑事訴訟法第三百十九条憲法第三十八条の違反であり法の解釈を誤りたるものといわねばならない。

三、被告人は事件当時未成年者で前途に幾多の春秋を持つ有為の青年である。本件の判断にして誤があれば被告人は生涯拭うことの出来ない一大汚名を受けることになるので慎重に御審理を賜り度いと念願している。被告人は未決生活一年六月只管身の潔白の証明される日を待ちこがれている世の中に真実こそは何物によつても支配し又動かすことの出来ない厳粛なる事実である。被告人は時間的アリバイがあつたという真実こそはいかに捜査当局が犯人逮捕のあせりからして被告人を犯人にデツチ上げようとしても尚且カムフラージユすることの出来ない真の姿であり真相である。いかなる証人の証言をとつてもいかなる当夜の客観的状態を検討しても被告人のアリバイこそは最も合理的であり又各証拠と符合判断出来るものであるから被告人に対しては速かに強盗罪については無罪の御裁判を、窃盗については有罪なるも弁償が出来ているので短期の執行猶予の御裁判あらんことを強くお願いする次第である。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例